2016年のオリンピック招致に東京が敗れた直後、広島市と長崎市が共同で20年のオリンピック招致に名乗り上げた。原爆の被爆地である両市は20年までの核兵器廃絶を訴えており、20年は目標達成の重要な節目にあたる。両市の動きに対して、東京を推したいJOC(日本オリンピック委員会)は困惑気味だ。だが、10年にサッカーワールドカップを開催する南アフリカが、その成功の暁には「アフリカ大陸初」を掲げてオリンピック招致に参加すると表明。にわかに、南アフリカが有力候補に浮上した。世界は既に20年に向けて動き始めている。日本も前進あるのみ。とはいえ、東京の敗因分析を放棄して、20年の招致合戦に突入するわけにはいかない。リオデジャネイロ(リオ)の勝因の裏返しが東京の敗因であるから、リオの勝因をおさらいし、東京の敗因を整理する
1つ目がリオのキーワード、「南アメリカ大陸初」。東京は「地球環境」を掲げた。素晴らしいテーマだったが、政権交代もあり、最後のプレゼンテーションで100%の力を出し切ることができなかった。次回は熱弁を期待したい。
2つ目が施設の再利用。パンアメリカン大会の実績とサッカーワールドカップ開催の組み合わせがIOC(国際オリンピック委員会) 委員を安心させた。東京は、「コンパクトな大会」を訴えたが、ラグビーのワールドカップが19年、サッカーは最速でも18年だから、16年のオリンピック招致の助けにならなかった。
3つ目が「継続」。リオはIOCの助言を得て招致活動を進化させた。都市の規模の違いに加え、地球規模のテーマである「地球環境との共生」を訴える東京は、過去に落選した名古屋や大阪とは違うとの気概が強かった。だから、世界は東京を「新顔」とみなした。だが、オリンピック招致を1回で成功できる確率は低くなっており、東京の強気があだとなった。
以上がリオとの比較であるが、日本はもっと肝心なところで後れを取っていることを指摘したい。20年を含む今後の大きな課題といえる。
1つ目はロビー活動ができる国際人の不足。ブラジルのヌズマンIOC委員(組織委員長に就任)は仲間の委員を訪ねるために世界中を数度行脚したという。これは、1974年にFIFA(国際サッカー連盟)会長に当選したアベランジェが取った手法と同じ。それに世界的人気者のペレが加わっていたのだから、最後に圧倒的な強さを発揮したことも納得できる。日本のスポーツ界は各国際連盟の会長職に1人もだしていない。だから、国際的ロビー活動では無力に等しい。スポーツの国際人の育成こそ喫緊の課題だ。
2つ目はスポーツ全体に対する国家戦略の欠如。オリンピックやワールドカップのような国際大会の規模が大きくなった結果、招致そのものが国家プロジェクトとなった。もはや、国家的視点で戦略を構築しないと招致成功はありえない。同時に、国際大会招致の前に、国民がスポーツを楽しみ、かつ、スポーツを通じて健康と体力を維持できる環境作りが不可欠だ。国際大会と草の根の両立こそ国家と自治体の仕事だ。
最後に、広島・長崎のオリンピック招致に言及する。憲章が2都市での開催を認めていないのに加え、広島・長崎には高いハードルがいくつもあるので、現時点では絶望的な環境だ。だが、広島と長崎は世界中の都市が経験していない被爆地であるから、地域や国を超越して、世界の世論に訴えることができる。これこそ最大の強みだ。さらには、小都市のハンディを逆手に取って、広島と長崎の点を北九州・福岡・佐賀が線で結んで支援する態勢を構築できれば、東京や世界の候補地と互角の戦いができるに違いない。
広島・長崎の「核廃絶」と東京の「地球問題」とがしのぎを削り、オリンピックの理念・使命・目的を昇華してほしい。そうすれば、世界の他の都市に負けることはない。加えて、オリンピックは2020年で終わらないことも覚えていてほしい。
2016年のオリンピック開催地がブラジルのリオデジャネイロ(リオ)に決定した。前評判で本命と目されていた米国シカゴが1回目の投票で振り落とされる番狂わせがあり、その時、もしかしたら東京は最後まで残るかもと期待が膨らんだ。だが最後は、リオとスペインのマドリードの戦いになって、シカゴと東京の票を全部上積みしたリオの圧勝に終わった。
開催地が決まり、少し冷静になってIOC委員の選考結果を分析した。リオの勝利は、3つに起因すると考えられる。
1つ目は、他の都市がまねできないキーワードの巧みな強調だ。リオのキーワードは「南米初」だった。1896年にアテネで始まった近代オリンピックは、100年以上たっても南アメリカ大陸とアフリカ大陸での開催がなかった。シンボルの五輪旗が示す如く、オリンピックが5大陸の最高のアスリートが集う場であることを勘案すると、開催準備が整っているとの確証があれば選択は自然の流れだった。この雰囲気の中でルラ・ブラジル大統領は「南米初のオリンピック」を演説の中に効果良くちりばめ、IOC委員の琴線に触れることに見事に成功した。
2つ目は、「継続」だ。1984年のロサンゼルスは無投票だった。オリンピック憲章から「アマチュア」の文言が削除されて10年。米連邦政府も加州政府も、そして当のロサンゼルス市からも赤字補填しないと宣告されたロサンゼルス組織委員会は当然の如く商業主義に走り、黒字を確保した。以後のオリンピックでは、組織委員会レベルでの赤字はなくなった。
そうなると多くの都市が招致に手を挙げることとなり、競争が激化した。もはや1回目の立候補で招致に成功することが困難となった。例えば、2000年は大本命のアテネを押さえてシドニーが選ばれたが、オーストラリアは他の都市で2度失敗した後にシドニーを候補に立てて3度目で当選した。04年は00年の敗者アテネが返り咲いた。08年の北京も2度目の挑戦で成功。12年のロンドンは、バーミンガムやマンチェスターなどイギリスの都市の3度の落選後、4度目で勝利を収めた。
このように国と都市が一体となって招致活動を改善しないと勝つことが難しくなっており、何度も挑戦する「継続」が求められるようになった。リオは04年と12年に立候補し、1次審査で落選した。それでも、12年の落選時にIOCのロゲ会長を訪ね、招致要領について意見を聞く執念をみせた。そして、3度目にしての悲願達成だった。
3つ目は、「国際大会の組み合わせ」だ。近年、オリンピックやサッカーワールドカップ(W杯)に参加する国や地域の数は国連加盟国を上回る規模に達している。また、各種スポーツの世界連盟が単独でオリンピック規模の世界選手権を実施するようになり、世界規模のスポーツ大会を受け入れる国は競技施設のみならず、交通手段や宿泊施設を整えることが不可欠となった。同時に、安全確保も万全を期す必要に迫られるようになった。その結果、国家レベルで国際大会招致の調整を行い、施設と社会基盤の整備・充実を確約しない限り、国際大会の招致が困難になっている。
リオは、南北アメリカ大陸のミニ・オリンピックである「パンアメリカン大会」を07年に開催して成功しており、その実績と14年のW杯開催は、16年にリオを選択するIOC委員を安心させるに十分だったことは間違いない。
近い将来、日本がオリンピックやW杯などの国際大会の招致を目指すとき、以上の3要因を大いに参考にすべきである。また、スポーツ振興に関する国家レベルでの長期的戦略構築がますます重要になったことを肝に銘じる必要がある。
今日、本当に久しぶりにテレビを長時間見ました。13:00~16:30ソフトバンクホークス対楽天イーグルスのCS第2戦、16:30~17:00箱根駅伝予選会、18:00~21:30ヤクルトスワローズ対中日ドラゴンズのCS第1戦、です。テレビ観戦で気付いた、「色(カラー)」について記します。
広告看板が無いに等しく、街並みが整然と美しい、ヨーロッパの都市。ヨーロッパの旅行から日本に戻ってきますと、無定形の広告看板が無秩序に並ぶ日本の街角の醜さに唖然とさせられます。夜のネオンはともかく、昼の銀座も決して「美しい」とは言えません。しかも、色がバラバラなんです。1枚、1枚の看板は美しく整っていますが、複数の看板が統一されずに一遍に眼に飛び込んできますと、「ノイズ」(邪魔)になります。
たとえば、ゴルフのマスターズやテニスのウインブルドンでは、広告看板が排除されています。有っても目立ちません。これは、大会主催者が、全国、更には、世界に美しい映像を配信して、より高い放送権利料を獲得することを意図しているからです。テレビからの収入を重視する時、広告看板の露出は後退します。パリーグのCSとセリーグのCSを見て、看板のあり方や色の使い方について考えさせられる機会が多々ありました。
箱根駅伝の予選会では、応援する帝京大の選手を探すのに一苦労しました。200人以上の学生が走っていますので、ユニフォームの「色」でしか見分けがつきません。しかし、選手のユニフォームの色が記憶に鮮明に残っていませんので、同じような色の他の学校の選手と間違えてしまいます。帝京大グループのロゴマークは「青」ですが、テレビに登場する、駅伝は「赤」、大学ラグビーは「赤と黒」、高校サッカーは「黄」、高校野球は「黒と黄」、と言うように、ユニフォームの色を使い分けています。「えんじ」の色に統一された某大学・高校と対照的です。
ブランド強化や価値の付加を考える時、そして、大多数の部外者に一瞬にして識別・認知をしてもらうためには、「色(カラー)」の統一はとても重要です。なぜなら、人間の脳は、「文字」よりも「色」で判断することが多いからです。いろいろな実験が既に証明しています。たとえば、箱根駅伝で、アナウンサーが小さな豆粒にしか見えないほど遠い位置の選手を、ユニフォームの色だけで判断して、「どこどこの大学」と絶叫します。常日頃から「色」を覚えてもらっている大学は有利です。アナウンサーは覚えている「色」で判断し、声に出します。すると、ディレクターはその選手を追うカメラにスイッチします。結果、多くの人が知っている「色」の大学のテレビ露出が増えることになります。
ブランドを強化したいならば、「色」の統一を行い、その次に、統一された「色」を継続的に露出することから始めなければ、ブランド強化の効果が薄れます。
史上初めてバスケットボールが行われたのが1891年。バスケットボール発祥の地、米国マサチューセット州スプリングフィールドには殿堂が建てられている。先月、3人の元NBA(米プロバスケットボール協会)のスーパースター、マイケル・ジョーダン、デビット・ロビンソン、ジョン・ストックトンが、規定上最速の、引退後5年で殿堂入りを果たした。彼らの共通項の最たることは、1992年バルセロナオリンピックの米国代表メンバーだったことだ。
プロバスケットボール選手が最初にオリンピックに参加したのがバルセロナ。それまで、オリンピックの男子バスケットボールでは、ステートアマから成る社会主義国の代表チームに、学生中心の米国代表チームは歯が立たなかった。プロ参加が容認され、人気と実力を備えた当時最高レベルのNBA選手11人と大学生1人で構成された代表チームを、米国は満を持してバルセロナに送ることを決定。
結成時から「ドリームチーム」と呼ばれた米国代表は、本大会でも期待に違うことなく無敗で完全優勝を達成し、世界中がその強さに感嘆した。そして、「ドリームチーム=NBA」が世界に浸透することになった。
ドリームチームにユタ・ジャズからストックトン(プロ在籍期間84~03)とカール・マローン(同85~05年)の2人が選ばれた。ストックトンは身長が185センチ。大男ぞろいのNBA選手の中では最も背の低い一人だった。その彼がアシストの名手(1万5,806回は歴代最多)でありえたのも、206センチのマローンという相棒がいたからだ。また、プロレスラー並みの体格で確実に得点(通産3万6,928得点は歴代2位)を重ねることから「メールマン」(郵便配達人)の愛称が付いていたマローンもストックトンの存在は不可欠だった。2人が繰り出す技はNBA史上最高と賞賛され、分かっていても2人の動きは止められないと言われたモノだった。
コインの表と裏のごとき2人のコンビネーションプレーが最高に達したのが、93年にソルトレークシティーで行われたNBAオールスターだった。試合のMVP(最高殊勲選手)は文字通り1人の選手に与えられる最高の称号だが、史上初めて2人がペアで受賞した。筆者もその試合を現地で見たが、2人のプレーは芸術を超え、正に神業だったことを覚えている。
バルセロナの2年前の90年、NBAは北米大陸以外で初となる公式戦を東京で行い、世界市場進出を本格化した。そのとき来日したのがユタ・ジャズとフェニックス・サンズで、ストックトンとマローンは日本のファンの前で彼らの魅力を遺憾なく披露してくれた。
余談だが、日本のバスケットボール選手は全員、東京で行われたNBA公式戦を観戦することはなかった。ストックトンは、背の低い日本人選手が最も手本にすべき一人であったし、何よりも、上手なプレーを見ることが上達の早道であるにもかかわらず、試合当日、彼らが所属する社会人リーグは東京以外で試合のスケジュールを組んだのだ。日本のバスケットボール協会がNBAを競合相手と考えたためと推察するが、この狭量はいまでも続いていて、結果、76年のモントリオール以来、日本の男子バスケットボールはオリンピックに出場していない。
ストックトンとマローンのコンビはマローン入団の85年から始まり、ストックトンが引退する03年まで続いた。仕事は1人では何もできない。大きなプロジェクトになるに従い多くの仲間が必要になる。だが、相棒と呼ぶことができるパートナーがいない人に、仲間となる人が集まるはずがない。ストックトンとマローンを思い出し、仕事の成功の鍵はパートナー選びであることを再認識した。
元NBAユター・ジャズのジョン・ストックトンが引退後5年にして、バスケットボール殿堂入りを果たしました。彼は、1984年に入団、2003年に引退。その間、ジャズ一筋で活躍し、15,806のアシスト数は歴代最多です。日本との関係では、彼は、1990年東京体育館で行われたユター・ジャズ対フェニックス・サンズのNBA公式戦開幕試合に、ジャズの一員として来日しています。また、1992年のバルセロナ・オリンピックのバスケットボールアメリカ代表(いわゆる、「ドリームチーム」)メンバーの1人です。
現在、世界中のバスケットボール選手が、ドラフトを経て、NBA球団に入ることが可能です。しかし、一方では、最も狭い門です。なぜなら、NBAの場合、ベンチ入りの選手は12名ですから、30球団x12名=360名の椅子しか有りません。選手寿命を仮に12年(実際はもっと長いですが)とした場合、新人選手は、年に30名の入団、すなわち、1球団当り1名、で事足りることになります。従って、NBAの選手は、他人が持っていない何か特別の術がないと、入団はおろか、選手間の競争に残れません。競争の激しい世界です。だが、NBAで地位を確保すると、NBA収入の約60%を360名で分け合うのですから、平均年俸は約6億円に達します。この平均年俸は、MLB選手の倍、日本のプロ野球選手の約20倍、日本のbjリーグ選手の約100倍です。因みに、日本の平均的サラリーマンの生涯年俸の倍です。
そんなNBA選手の中で、ストックトンは身長が185cmです。NBAの選手としては最も身長の低い部類に入ります。バスケットボールの世界では、背が低いことは致命的ハンディがあります。それでも、彼は、現役期間中、超一流の成績を残しました。彼が、NBAの歴史に燦然と輝くことができるのは、「メールマン」の愛称を持つ、カール・マローンと言う「点取り屋」とコンビを組んだからです。
日本が生んだ天才バスケットボール選手の田臥がNBA入団を挑戦していますが、360名の枠に入れません。田臥はストックトンよりも小柄です。だから、田臥個人の努力だけでは限界があります。田臥には、ストックトンのジャズでの20年間を充分に研究すること、同時に、カール・マローンのような、これまた超一流の相棒を早く見つけること、を勧めます。







