アディダスの2代目、ホルスト・ダスラーは、1970年代にアディダスを世界一の売上を誇るスポーツ用品メーカーに成長させた人です。だが、それよりも、オリンピックやワールドカップなどの世界規模のスポーツ大会に商業的価値を見出した人として、長く歴史に刻まれています。
1970年代のアディダスの成長は、1972年のミュンヘン・オリンピックと1974年のワールドカップ西ドイツ大会に負うところが大です。特に、ワールドカップでは、2度目の優勝を遂げた西ドイツ代表チームのユニフォームやスパイクは勿論のこと、大会公認球もアディダス製でしたので、アディダスの知名度が世界中で高まりました。
1974年にFIFA会長に就任したジョアン・アベランジェとの関係を構築・強化したホルスト・ダスラーですが、自らFIFAの権利を現金化するには準備不足でした。そこで登場するのが、ピーター・ウエストとパトリック・ナリーでした。2人で作ったのがウエスト・ナリー社です。世界で最初の本格的スポーツマーケティング会社です。
アベランジェがFIFA会長選挙の時に掲げた公約の1つに世界ユース選手権の実施がありました。ホルストはウエスト・ナリー社の協力を得て、コカコーラをスポンサーに付けて1977年から世界ユース選手権をスタートさせました。
ホルストとウエスト・ナリー社は1978年のワールドカップアルゼンチン大会から「広告看板」の販売を始めます。コカコーラがスポンサーになったことで世界的企業がスポンサーに加わるようになります。
1982年のワールドカップスペイン大会では、広告看板で100億円を叩き出しました。100億円はスペイン大会事業収入の3分の1に相当します。広告看板の商業的価値を再確認したホルストは、自らスポーツマーケティング会社を作ることを決心します。その時のパートナーが電通です。
アディダス51%、電通49%の出資で1982年に設立されたのが、ISL(International Sportsculture & Leisure)です。ISLはワールドカップを軸に4年単位のスポンサーシップを「インターサッカー4」と称して販売し、大成功を収めます。
しかし、1987年にホルスト・ダスラーが死去します。ISLも独立色が強くなり、テニスやカーレースにも手を広げ、結果、権利が思うように売れずに2001年倒産しました。
Necessity is the mother of invention.
ヨーロッパはテレビが公共放送でしたので、視聴率を稼げるサッカーと言えども、生中継が少なく、まして、番組の中にCMを挟むことができませんでした。そこで考え出されたのが、ピッチの横に並ぶ「広告看板」です。広告看板の価値に注目し、ビジネス化を計ったのが、アディダスの2代目、ホルスト・ダスラーです。
アディダスの創業者はアドルフ・ダスラーです。アドルフには兄のルドルフがいました。兄は営業に適し、弟のアドルフは職人気質でした。所が、兄弟は第2次世界大戦を挟んで不仲になり、1948年に完全に袂を分かちます。
「アディダス」の社名は、アドルフの愛称の「アディ」とダスラーの「ダス」を組み合わせて命名されました。一方のルドルフが設立した会社が「プーマ」です。2人は生まれたヘルツオ-ケンオーラッハの町を流れるオーラッハ川の両岸に住んだために、兄弟の確執が町の人々にまで影響を及ぼしたそうです。それほどの兄弟喧嘩だったわけです。喧嘩も中途半端でないために、世界市場で争う、アディダスとプーマを作り出したとも言えます。
アディ・ダスラーは世界で最初に競技別に異なる靴を考案した人です。アディの技術が1954年のワールドカップスイス大会でドイツ優勝に貢献します。ドイツとベルギーの決勝は雨の中で行われました。2対2の前半を終えたドイツは、スパイクのスタッドを取り替えたのです。アディの考案でした。滑らなくなったスパイクのお陰もあり、ドイツは3対2で初優勝を遂げました。
アディ・ダスラーは、最高のアスリートがアディダスの靴を履いてくれることが最高のプロモーションになることに気付き、今で言うところの「プロダクト・サプライ」を最初に行った人でもあります。
Too many cooks spoil the broth.







